朝顔を②
先に、藤原道信と婉子女王のことを書きましたが、北の方もまた大事な女性であったのではないかと思います。
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正歴五年七月十一日(994年8月20日)、藤原道信は患っていた天然痘が重篤化し、亡くなったそうです。
いたうわずらひ給ひければ他にわたしたてまつりけるに、かぎりにおぼしければ、北の方の御もとへやまぶきの衣たてまつり給ふとて
くちなしの色にやふかくそみにけん 思ふ事をもいはでやみにし(道信集)
道信の中将様のご病気が悪化なさったので、他の所にお移りになっていただいたが、道信様はここまでの命とお思いになられたので、北の方のもとへ山吹色の衣を差し上げなさる時に添えられた
くちなしの色に深く染まったようだ。あなたに告げたいと思うことも言わないで、終わってしまった。
(山梔子の実で染めた色は黄色くなるので、山吹から連想される。また「山梔子」と「口無し」を掛けている)
これを読むと、道信は北の方へ直接最期のお別れが言えなかったのだろうかと切なくなってしまいます。天然痘はおそろしい病気なので、北の方はそばにいることはできなかったのでしょう。
道信は、他の男性貴族と同じように何人かの女性と関係があったようです。
この歌は千載和歌集では、北の方ではなく、その女とされていて、女の夢に現れて詠んだのではないかとも。
わつらひ侍りけるかいとよわくなりけるに、いかなるかたみにか有りけむ、やまふきなるきぬをぬきて、その女につかはし侍りける/又いはく、みまかりてのち、女のゆめにみえてかくよみ侍りけるとも
くちなしのそのにやわか身入りにけん おもふことをもいはてやみぬる
道信の中将様は患いなさったからか、弱くなったので、どのような形見であったのでしょう、山吹色の絹を脱いで、その女のもとに持って行かせなさった。/又このようにも言われている。身罷ってのち、女の夢に現れて、このようにお詠みになったとも。
くちなしの園にでも私は迷い込んだのだろうか。あなたに告げたいと思うことも言わないで、終わってしまった。
千載和歌集は道信が亡くなって、二百年ほど経っているので、伝承も混ざっているかもしれませんが、詞書きの真相が気になってしまいますね。
道信に子がいたのかはわかりません。未亡人になってしまった道信の妻はこののちどう過ごしたのでしょう。
角田文衞先生の『承香殿の女御』の中に、左大臣藤原顕光がその妻の妹の「宰相の内侍」を引き取ったことが書かれています。
藤原道信が亡くなったので、道兼の妻は妹を引き取ったかもしれません。けれども、それからまもなく道兼も亡くなったので、彼女は出仕し、やがて、顕光の後妻となっていた姉のもとに身を寄せたのではないかと。
そして、寛仁元年6月に亡くなったようです。
夫を亡くして24年ばかり。女官になっていたのですから、才能豊かな女性であったのかもしれません。亡き夫のことを広めたりしたのでしょうか。
この件、御堂関白記の記載を確認したところ、藤原遠量の娘である宰相の内侍であることは確認できたものの、道信の北の方かはわかりませんでした。
しかし、とても興味深いです
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平安時代の朝顔は青いようなので濃い青にして、輪郭などを修正しました。
いかがでしょう。
あさがほをなにはかなしと思ひけん人をもはなはさこそ見るらめ(道信集18)