道兼は嫌われていたのか
前回の少し続きになります。
藤原道兼の縁組みもあり、藤原道信はいとこの藤原遠量の娘の聟になりました。
さて、この藤原道兼、道隆が亡くなったあと、めでたく関白になりました。
(この間に、道隆が息子の伊周を後継者にしようとの画策があるのですが)
しかし、彼は病を患っており、朗報を聞いて数日で亡くなってしまいました。「七日関白」と後世に呼ばれる所以です。
このあと、藤原道長が左大臣になり、栄華を極めたことを考えると、余計に影は薄い。
さらに、栄花物語に描かれた道兼は、顔色が悪くて、毛深く、醜い。性格は悪いし、兄に口答えするとあり、好感の持ちようがなく・・・。
一方大鏡だと、関白になったお祝いに訪れた藤原実資は、道兼の体調がひどく悪いので
いかでかは、御色も違ひて、きららかにおはする人とも覚えず
(どうしたことでしょう。お顔の色もいつもと違って、輝いていらっしゃった人とも見えず・・・)
…と。
これは、のちに賢右府と呼ばれる藤原実資の感想です。敬意を持ってのことではないでしょうか。
また、兼家が、自身の跡継ぎにふさわしいのは道隆か、道兼かと、相談する話が古事談にあります。
当時はまさか、兄二人が相次いで亡くなり、四男の道長が左大臣になる将来など、かなりの予想外であったようです。
(次男の道綱は妾腹なので、ここでは外しています)
関白はどちらがふさわしいか。
平惟仲と多米国平は、長幼を重んじ、道隆に譲るべきと。
ところが、藤原有国(当時は在国)は、花山天皇をすかしおろした功を以て、道兼の方に譲るべきと。
有国は道兼に近しかったようです。
道隆は度々、有国の道兼を立てる態度が気にいらず、惟仲を厚遇し、有国とその息子の官職を剥奪してしまったのだそうです。
こんなことをするなら、道兼が兄に口答えするのも仕方ないのでしょうかね。
彼の家人であった藤原相如(すけゆき)も道兼を慕う人で有名です。彼の為人にかなり惚れ込んでいて、自宅を療養のために提供したり、臨終の道兼に尽くし、さらに、道兼の後を追うように亡くなってしまいました。
相如に限らず、彼を支持する人々も意外といたのでは・・・。
道兼は「粟田殿」とも呼ばれます。白河に「粟田殿」と呼ばれる、豪華な別邸を作り、そこへ時々人を集めて、歌会や宴を開いていたようなのです。*1
そうやって、人間関係を広げていた可能性もあります。
藤原公任も道兼に縁組みをしてもらったと、栄花物語にあります。
昭平親王の妻は、道兼とその妻のいとこで、二人は仲がよかったので、美しいと評判の娘を引き取ったようです。
このあたりは道信の妻に似てますね。
また、先に述べたとおり、公任のいとこ実資と道兼も親しかったような感じがあり、根拠は薄いですが、小野宮流となにやら関係が深かったのではと、勘ぐってしまったりもしてしまいます。
https://twitter.com/nakuramayumi_u/status/1302021207416426503?s=20
こちらに改稿転載しました(2021年10月26日)