奈倉まゆみの描きつづり

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脩子内親王が隆家の屋敷に遷ったことについて

怠けてしまい、久しぶりの更新となってしまいました。

 

藤原行成の日記『権記』も読むのを怠けていたので、久しぶりに続きを読んでいるところです。

 

一条天皇が亡くなった時のことも、いろいろ感慨深いことがあったのですが、今回は、そのあとの脩子内親王が、叔父隆家の家に遷ったことについて。

 

悪い言い方をすると、時の権力者左大臣藤原道長と、その娘で一条天皇中宮彰子のところから、主流からはずれてしまった中関白家の叔父隆家の元に家出した日のことです。

 

寛弘8年(1011年)8月11日、この日は一条天皇の法事が行われました。

一方、新天皇となった三条天皇が、新しい内裏へ遷御(火災に遭った)、宮中では夜遅くまで宴なども行われたようです。

 

脩子内親王が隆家の屋敷に遷ることになっていましたが、隆家はこちらに参加していたので、脩子内親王のもとに行くのが遅くなってしまいました。

行成は法事の方に出ていたようです。疲れていましたが、一条天皇の恩を思い、脩子内親王の行列に参加しました。

 

この日は多くのイベントがあったようですね。

 

なぜ脩子内親王はこの忙しい父の法事の日に、隆家の屋敷に遷ることにしたのでしょう。

占いの結果、この日が吉日だったので、無理矢理予定した可能性もありますが、父の法事はとても大事な日、脩子内親王自身の積もり積もった思いが、この日を選ばせたように思えてしまうのです。

 

しかし、この日の藤原実資の日記『小右記』では、隆家は「ちょっとありまして・・・」とこっそり話したとしかありませんでした。

 

だから、はっきりした理由はわからないのです。

けれど、道長はこのことに、不快であったらしい。

 

同日、道長一条天皇と定子の第一皇子で、脩子内親王の弟である敦康親王に二条邸を献上しています。

 

翌日、道長は行成に、皆は必要ないと言うが、一条天皇からの恩顧もあるのに、その皇子の敦康親王が屋敷ももたないのは、不都合だと思ったから、そうしたと語ったようです。

 

少し、いいわけがましく聞こえてしまいます。

先に述べた脩子内親王の件があるから余計です。

 

想像ですが、この少し前に、脩子内親王と何かがあり、慌てた道長は、敦康親王をつなぎ止めるために、二条邸を急ぎ準備したと考えられないでしょうか。

 

皇子に献上する屋敷ですから、単純に、家の名義を変えるだけではないでしょう。すぐに入れるように、家を改修清掃したうえで、使用人も用意しなければならない。なかなかの面倒です。

 

でも、こんな大きなプレゼントを用意してでも、道長は定子の遺児を手放したくなかった。敦康親王まで離れてしまっては困ることがあったのではないでしょうか。

ひょっとしたら、一条天皇や定子への後ろめたさであり、脩子内親王が中関白家の隆家を後見に選んだことで、道長はかくしていた後ろめたさを露呈されたのではないでしょうか。

 

想像ばかり話しても益はないので、今回は、ここまでに。

一条天皇という存在をまた強く感じたエピソードでした。

 

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定子と隆家と脩子内親王