奈倉まゆみの描きつづり

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幼少の頃の実方と済時の北の方のことを想像してみた

百人一首の「かくとだに~」の歌で有名な藤原実方

その生年はよくわかりません。

天禄三年(972年)に左近衛将監になったところを、十五歳前後とされているようです。

では、実方の父定時がいくつくらいで亡くなったんだろうと考えてみました。最終官暦は侍従。

弟の済時は十八歳で元服し(天徳二年・958年)、十九歳で侍従になっています。

侍従を弟とやるのでしょうか?だいたいその頃に亡くなったような気がします。(素人なので、想像でご容赦を)

 

実方には弟と妹がいます。仮に、定時が22歳で亡くなったとしても、実方はまだ幼児だったでしょう。(弟妹については、確証なし)

 

父が亡くなったあと、北の方と弟妹と屋敷暮らしか、北の方の父源雅信邸で育てられたか。

定時の父師尹の屋敷で育てられて、そのまま、元服して、済時が養子になった方が自然かもしれません。

ところで、済時はお隣の源延光の娘を北の方に迎えています。お隣ってとこがいい。
そして、始まる妄想。
 
 
 

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→ちび実方が髪を結ってるのは、みづらの準備とか言って、女房たちに遊ばれたから。(美人にいじられるのはなんでも嬉しい幼児)

 

済時の長男相任(すけとう)が生まれたのは、済時の三十歳の時です。元服してから北の方が子を授かるまで、随分開いていますね。

このあと、大体二年毎に子供を授かっているようですので、子供ができにくかったとは考えにくいのでは?ならば、北の方は十歳くらいは年下だった可能性もあります。

その間に、妾に子を産ませている可能性もありますね。

 藤原為任はおそらく、相任より年上で、北の方とは別の女性(源兼忠の娘?)との間に生まれたようなので。

 

 

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さて、この北の方、実方の私家集では、度々登場します。歌を読んでいると、まるで母のように実方のことを慈しんでいた事が窺えます。また、実方は、北の方の父延光の屋敷である枇杷殿によく行き来していたので、きっと北の方の両親にもかわいがられていたことでしょう。

 

こうやって、いろいろ考えてみると、枇杷殿の方々はとてもよい家族だったのかもしれません。