藤原道雅と當子内親王のこと
藤原道雅と言えば、百人一首の荒三位とか左京太夫道雅という呼び名が有名でしょうか。
道雅は『枕草子』では松君という幼名で登場します。
祖父道隆は関白で、娘の定子中宮が一条天皇の寵愛を一心に受け、栄華の極みにあった一家は「中関白家」と呼ばれていました。
道雅は道隆に大変かわいがられていたそうです。
道隆が亡くなったあと、父伊周は長徳の変で失脚。中関白家は次第に時流から外れてしまいます。けれど、道雅は、かつての関白道隆の愛孫であり、亡き定子皇后の甥として、一条天皇や彰子中宮(道長の長女)に目をかけられていたようではあります。
『紫式部日記』ではのちの後一条天皇の誕生を祝う天皇の勅使として、道雅は登場します。この宴には、叔父隆家はいますが、父伊周は体調不良か参加できない理由があったのか、それとも呼ばれていないのか、文面に見えません。
この時道雅は蔵人、一条天皇の政務や雑用を側で手伝う役目にありました。
果たして、この頃の朝廷は道雅にはどう見えていたのでしょうか。
それから、父伊周は(数え)37歳という若さで亡くなりました。
そして、一条天皇から三条天皇へ、さらに後一条天皇の御代に入った長和五年(1016年)九月、伊勢の斎宮としての役目を終え、當子(当子)内親王は帰京しました。その翌年の寛仁元年四月そこへ藤原道雅が密かに通っていたことが、発覚。當子の父三条院の耳に入り、怒りを買ったのです。
二人は引き離されました。
今はただ思ひ絶えなむとばかりを
人づてならで言ふよしもがな
この歌は、百人一首にも採られていて、當子と引き離されたあと、失意のうちに詠んだものと伝えられています。
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三条院としては、愛娘が素行が悪い公達に辱めを受けたのだと思い、ゆるせなかったのでしょうか。
時の左大臣藤原道長とウマが合わず、思うがままに政をすることもかなわず、体調を崩し、失意のうちに譲位しました。
そんななか、敦明親王を東宮にした執念を思うと、せめて子供達は守りたい気持ちが強かったのではないかと思います。
後拾遺集には、百人一首の歌も含めて、道雅の悲嘆の5首が採られているそうです。
題知らず
なみだやは又もあふべきつまならん なくよりほかのなぐさめぞ無き
伊勢の斎宮わたりよりのぼりて侍ける人に、しのびてかよひける事を、おほやけもきこしめして、まもりめなどつけさせたまひて、しのびにもかよはずなりにければ、よみ侍りける
あふさかはあづまちとこそきゝしかど 心づくしのせきにぞ有ける
さかきばのゆふ*1でかけしそのかみに をしかへしてもにたるころ哉
いまはたゞおもひたえなんとばかりを 人づてならでいふよしもがな
又おなじ所にむすびつけさせ侍りける
陸奥のをだへのはし*2やこれならん ふみゝふまずみ心まどはす
その後、當子内親王は出家し、若くして亡くなりました。また、道雅は暴力事件や殺人疑惑に賭博など、多くの不祥事を起こし、荒三位とあだ名されたそうです。
参照:角川書店 松村博司著『栄花物語全注釈』(太山寺本『後拾遺和謌集』による)